交流タイム

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作家と鑑賞者のはざまで

第29回布穀会展・有楽町朝日ギャラリーで実施

 

司会:鈴木蓉春(布穀会)

出席者はギャラリートークと同じ

 

書の線と絵の線の違い

秋山

ギャラリートークとがらりと趣向を変えまして、ご参加の皆様と座談会出席者との交流タイムです。日頃お感じになっている疑問点、ちょっと聞いてみたいこと、何でも結構ですから、どうぞお話し合いください。司会は田宮先生からバトンタッチして布穀会の鈴木蓉春さんがつとめます。

 

鈴木

先程までの座談会はとても専門的な部分もあり、有意義だったと思うのですが、一方で見てくださる方あっての展覧会というところもあって、ここに集まって来てくださった方々は書に関わりの深い方もいるし、ちょっとだけの関わりの方もいますので、今回のお話を聞いてでもいいし作品を見てでもいいし、何でも結構ですからご質問をどうぞ。

 

河村(雪)

布穀会の河村雪華です。私は「線」についてお聞きいたします。徳田さんは絵も文字もリズムもすべて統合して表現する時に、やっぱり線は違うとおっしゃり、一方、絵には書の線が見られないということでしたが、もう一度ご説明いただけますか。

 

徳田

分かりやすくいえば、これがないとこの絵は完成されないんだなという線を、絵を見た時に足りないところがたくさん見えてしまうということです。だから、ただ引く線のことをいっているのではなく、ここに1本精神の入っているもの、それが入ればいいのにな、というものが多いので、絵の方はそういうことを余り考えていないということなんでしょう。で、書をやったり、線をたくさん勉強したりすると、そういうのが分かってきますね。そのため却って自分は絵を描く時にそれを強く意識しています。書の作品は、そういうことを何も考えないで無我の感じ、まったく無心で書きますので何が自分の引き出しから出たか、もちろん分かりませんし、瞬間にしか出来ないし、一枚しか書かない主義なので、その中にその瞬間を投入するだけなんで、どういうことを考えてやっているか、という質問でしたら全然ありません、何も…(笑い)。

 

河村(雪)

作品をつくる時に、線質ってすごく気になりますよね。私の場合は一つの文字に対して、例えば「母」だったら母という字に、どういう母親なのか、厳しい母なのか、優しい母なのか、太ってぽっちゃりしている母なのか、そういう連想してからイメージをオーバーラップさせて作品をつくるんですね。だから、そのためには、線質もやっぱり考えないとやっていかれないという部分があります。

 

徳田

答えになっていないかもしれませんが、さっきいった白黒の関係ですね、白い紙の上に文字一つ書く時に、私なりの考え方は白の中に黒という線がナイフのように切り込むと思っているんですね。切り込む…だから書いたものを白で見るんです。黒で書いた線で見ません。白がどう残っているかっていうことで、作品の想いとか、そして自分なりに良く書けたなって、そういうところは白で見るんですね。だから線を書くっていうことは、画家のフォンタナがキャンバスに食い込んで切り裂く時、あるいは宮本武蔵が刀を振って収めた時、そういう時の瞬間の厳しさで引くものだと思っているので、精神的に線を書くこと自体が、もうすでにそういう境地というか気持ちになってしまっているので、白い紙の上にどこから線がやってきて、どこで終わって抜けていくかという、そういう風にして、いつも書いています。

 

河村(雪)

書をやっていると臨書していても厳しい線もあり、隠した線もあり、いろいろですから、そこに精神面が見えて惹かれるというのもよく分かります。

 

鈴木

ここへ来てらっしゃる方で書を全くやってらっしゃらない方がもしいらしたら、どういう風に感じられたか、よろしかったらその辺伺ってみたい気がいたします。

 

見る人は気持ちの中で作品と会話する

遠藤

徳田さんのお友達に誘われて、ここへ参りました遠藤と申します。私は今のところは絵も書もやっていないのですが、絵を見るのは大好きで本当に自分は受身の形で関わっているのですね。今日は見せていただいて感じたことは白がすごく効果的に生かされている、それからリズムがあると思ったんですね。それは展覧会場に入ってきてまず感じたことなんです。

 

鈴木

ありがとうございます。そういう風に感じてくださって本当によかったと思います。横山先生、いかがでしょう。

 

横山

展覧会の鑑賞者が書について何にも知らなくて、この作品は文字から来ている、あるいは来てないと思い、そこに何かを感じていただければそれでいいんじゃないですか。見る人それぞれが自分の気持ちの中で作品と会話をしているわけですから。「あー、こいつはいいな」と思って心ときめかせる、つくる側はそういうものをつくれれば、それでいいんだなと思うんです。

 

鈴木

見る側の内部でその人なりの「創り」もあるということですね。

 

横山

私は、そういう意味で見る側の立場でいっても、書と絵の境界をつくるのは現代のグローバルの世界には通じないと思います。

 

鈴木

なるほど、見る側の自由、想像を刺激するということですね。その他に、鑑賞者の立場でご意見がありましたら、ぜひ…。

 

2へ続く