ギャラリートーク

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布穀会、次のステップへ

第29回布穀会展・有楽町朝日ギャラリーで実施

 

出席:伊藤道也(第1回会員・故人) 、梅木仙隆(第1回会員)、横山松濤(第1回会員・退会)、小野寺融紘(第10回会員)、徳田真佐子(第18回会員)、椎木江泥(第27回会員)

座談会司会:田宮文平(美術評論家)

コーディネーター:秋山峨堂

参加:会員8名 一般17名 計25名 

 

田宮文平(たみや・ぶんぺい) 昭和12年東京生まれ。大東文化大学中国文学科中退。美術書などの編集者を経て、近代・現代の書学、書道史、書評論に携わる。父は書家の中台青陵。千葉県美術館資料審査委員、(財)天来記念館協議委員、大東文化大学非常勤講師など。著書『「現代の書」の検証』(芸術新聞社)、『吉田苞竹』(西東書房)、『評伝 金子鴎亭』他

独立を求めて「グループ拓」から「布穀会」へ

秋山

本日はお忙しい中をお集まりいただきありがとうございます。布穀会30周年に際し、布穀会そのものを見直しさらなる活性化へとつながればいいと「ギャラリートーク」開催の運びとなりました。そこで『現代の書の検証』を著され、ますます評論に円熟味を増される田宮文平先生を司会とコメンテイターとしてお招きし、布穀会のメンバーと大いに語り合っていただきたいと思います。座談会を終えましたら、一般の皆様との交流タイムを用意していますので、よろしくお願いいたします。

 

田宮

布穀会と上田桑鳩先生との関係は非常に深いものがありまして、それぞれの想いを皆さんに話していただきたいと思います。上田先生の概略から入りますと昭和4年に比田井天来の門人になり、その後、桑原翠邦とか、金子鴎亭、手島右卿、大沢雅休などが上田先生の周辺に集まってきまして、昭和8年に先生を中心に書道芸術社(後の奎星会の母体)という結社を形成しました。戦後、上田先生は日展でも非常に活躍されますが、昭和30年に書に対する考え方が根本的に相容れないということで日展を離脱する声明を出し、自由な作家活動に入られるわけです。それから約20年たちまして(上田先生は昭和43年にご逝去)、昭和51年にいよいよ布穀会が誕生するわけですが、そのいきさつを創立同人の方から順次お話していただきたいと思います。

 

横山

私は昭和28年に桑鳩先生の奎星会に入ったわけですが、先生が亡くなられた後、中身が違ってきてしまったのです。桑鳩先生は奎星会の発展ということを念頭にかなり革新的に進めてきたんですが、それが逆行して保守的になってしまったんですね。当時の奎星会は790人ぐらい(昭和51年4月の名簿)でしたけど、その内150人ぐらいが桑鳩先生がいない奎星会に付いていけなくなってしまった。同時に関わっていた毎日書道展も同じように逆流していった。そこで有志が集まり、もっと自由な作品発表の場を持とうと「グループ拓」を発足させ、その5年後、さらに結束を強めて再発足させたのが「布穀会」でした。14人で奎星会を離脱して、大阪のきだただすさんの呼びかけで瀬戸内海の因島に集まり、「声明書」(「声明文」参照)を発表しました。その間の経緯は亡くなった小笠原環山さんの手記に詳しいのですが、ともかく夜を徹して語り合った情熱あふれるものでした。当時の14人の内、今日出席の伊藤道也さん、梅木仙隆さんと私の3人、それに今日は健康上出席していませんが、大野虚舟さん、倉田晴村さんの2人と合わせて5人が現在いる創立会員です。

 

伊藤

会の設立に際して会名をどうするかという時に、私が先生の仕事場である庵の「布穀庵」の「布穀」からとったらどうかといったら、「それがいい」ということになって「布穀会」に決まったわけです。その時の会の考えは個人がいちばん大事なんだという立脚点にありました。組織が大きくなると、どうしてもセクト的にならざるを得ない。それを打破しょうじゃないかと会を発足したんです。一時公募しようという話も出ましたが、反対する人もあって結局しませんでした。

 

梅木

創立会員の中ではいちばん若くて、昭和生まれは私一人なんですね。桑鳩先生のところへ行ったのは昭和27年からで、その後ずーっと付いていたのですが、先生が亡くなられた後、横山さんがおっしゃったように奎星会は変わってしまったんですね。前衛でありながら、誰かが牛耳って会を動かし古い体質へ傾いていくということを目の当たりにしたんです。そしてピラミッド式の序列の組織をつくっていくという…。書道界が穢れていく、純粋に作品をつくっていられない、これはもう一緒にやっていけないじゃないか、ということが有志揃って独立しようということにつながったと思いますよ。熱血漢が多かったから、純粋さを保って桑鳩の精神に立ち帰ろうということで布穀会の発足に踏み切ったのです。

 

田宮

当事者の方々から布穀会誕生の経緯を語ってもらいましたが、上田先生は大変純粋な方で、僕は子供のころから、いろいろご厚誼をいただきましたけれど、あれが駄目これが駄目ということは、おっしゃらなかった。すべてを抱擁していくという、先生自身が自分は道楽で書をはじめたというくらい人間的にも胃袋の大きい方でした。上田先生はひとり一人の個性をものすごく尊重して芸術の創造性を強調されました。当時の前衛運動全体を俯瞰してみても、見方によれば当時の奎星会展というのはずいぶんおかしな展覧会だったのです。保守的な伝統系の人から、徹底的な前衛系までが一緒に展覧会をやっているわけです。見方によれば、これが前衛なのか、という要素もありましたけれど、そういうものすべてを含めて上田先生は包容力があったのですね。そういう中で、布穀会の当時の若手の方たちは育ってこられた時に、ある時点から展覧会の出品に対して様々な制約を課されるということになって、芸術の創造性を成立するためには独立しようということになったと思います。公募展をやればかならず上下関係ができます。布穀会が同人制をとったということは、全員平等ですから、そういう意味では創設の理念に適うことになったのですね。

 

2へ続く