ギャラリートーク

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自由闊達で純粋な「布穀精神」

田宮

さて、布穀会30回展という大きな節目に際して、もう一度創設の原点を確認してみようというのが、今日のギャラリートークの一つの大きなテーマだと思いますけれど、布穀精神というものをもうちょっと梅木先生、話していただけますか。

 

梅木

桑鳩先生は芸術至上主義というか、純粋で常にロマンを求めて幅がともかく広かったですね。書ばかりでなく油絵も描かれたし、水墨画もやり、焼き物をつくり、石を収集鑑賞し、「おれは書家ではない、芸術家だ」とも言っていました。日展のいい席を蹴っ飛ばして在野でやれたくらいですから、その精神を引き継ぎたいというのが皆さんの気持ちではないかと思います。ひとり一人が一個の芸術家として自分を確立してないと、皆が集まった時、烏合の衆になってしまいますから、独立した個の集まりでありたいというのが発足時の原点でした。寄ってたかって何かつくろうじゃなくて、ひとり一人自己主張する個の作家の集まり、というのが「グループ拓」もそうだが、「布穀会」の発足にも皆そういう気持ちで集まったわけです。

 

田宮

それは桑鳩精神の原点みたいなものですね。

 

横山 

布穀精神というのは、先程伊藤さんがおっしゃったように桑鳩精神と根は同じですが、言葉の表現が時代に応じて変化してきているんじゃないかと思っています(「主張」参照)。ですから、個人の尊重、芸術に対する情熱の発散という基調は桑鳩先生が教えていたころと少しも変わらないのです。

 

伊藤

桑鳩という雅号は中国の『詩経国風』の詩からとったもので、詩編にある通り教え子の成長を願う心が桑鳩の名にこめられており、それが「桑鳩」の出発点だと思う。布穀は桑鳩の別名であり、布穀会はその名前を頂戴したわけですから、お二方から話があったように布穀会もひとり一人の個を大切にする会ということになるわけです。

 

田宮

今の布穀会の方たちは、恐らく現実の上田先生に会ったことがない方が多いと思いますけど、そういう世代の方から見て上田桑鳩像、布穀精神というのですか、どんな風に思ってらっしゃるかしら…、小野寺さんいかがですか。

 

小野寺

私は前、編集のお仕事をしておりまして、たまたまデザイナーが読む「デザインライフ」という企画もので布穀会を取材させていただいたとき、ものすごく感激いたしました。それがきっかけで布穀会の倉田晴村先生に書を習うことになり、その後この会に入らせていただいてとても光栄に思っています。「書は芸術だ」と教えてくれたのも倉田先生です。日常の心を反映させ、それを普遍化していったものが会員の作品に感じられるので、私も出来る限りそれに近づける力をつけたいと思っています。

 

徳田

私は静岡の出身で、高校時代に臨書を一生懸命やっている先生と前衛に向いている先生というお二方の指導を受けたんです。大学時代は絵の方に行ってしまったんですね。結婚を東京でスタートした後、上野の東洋書芸院展を見に行ったんですが、何百という作品の中に、たった一つ、すごく気に入ったものがあったのが大野虚舟先生の作品だったんです。大野先生の奥様にうちの子どもがたまたまピアノを習っていることが分かりびっくりしました。それが縁で大野先生とは十何年一緒に勉強させていただきました。そして先生に布穀会を紹介していただいて入ったんですね。これは、いろいろと運命の結びつきみたいなのがあったんでしょうか(笑い)。

 

椎木

私は桑鳩先生の孫弟子の立場になるんです。生まれは熊野なもんで小学校の時は孫弟子の弟子でした。桑鳩先生はたびたび井原思斎の関係で熊野に来られているので、私の家の前も通られたんじゃないかと思う。雲の上の先生という思いがずっとありまして、私が竹澤江東先生に付くようになっても、桑鳩先生はこわい先生で、安っぽいものをつくるなと叱られてきていると聞いていました。私の作品もちょっとうまくできていると思っていると、「お前、いつまでこんなことしちょるんか」と叱られながら育てられてきたものです。

 

田宮

上田桑鳩を現実に知っているメンバーと知らないメンバーとでは、同じ同人でも一緒にやっていて何か違和感がありますか?

 

小野寺

倉田・伊藤・大野・横山・梅木諸先生方に桑鳩精神といいますか、布穀精神といいますか、そういうものが宿っていらっしゃると私は思っています。ですから、先生方に接したり作品を見たりして、それをいつも垣間見る思いでおります。

 

田宮

それに惚れ込んでついて行くという感じですか。

 

小野寺

そうですね、ただ、先生方のその精神をそのまま受け継ぐということはできないので、先生方がつくってきたものを土台にして、あとは私たち桑鳩先生をじかに知らない人間が、それをもっと掘り起こして大きくして、未来へつなげられたらいいかしらと思っています。

 

徳田

上田桑鳩先生が亡くなって35年ぐらいですよね。やっぱり先生の作品を見れば芸術家としてどのぐらい素晴らしいのかということが分かります。しかし、このままでいいのか、と思うわけです。現在、私たちが生きているデジタル社会、ネット社会の中で違うものが出てきていいのじゃないかと。私は絵をやっていますので、それから比べると、とても旧式で、そこからなかなか抜けられないように感じます。伝統がいけないといっているのではないのです。やはり、あの素晴らしい歴史のある文化を大切にしながら、21世紀の「今」に挑戦していくべきじゃないかな、と思っているのです。

 

梅木

若い人と一緒にやっていても余り違和感はないですね。機会あるごとに桑鳩先生の話はよく出るし、今の人たちも先生の本を読んだり、その理論を自分の仕事の展開の参考にしたりしていることもあるようですよ。だから話をしても大体焦点が合うというか、外れることはないです。昔みたいに衝突したりは余りしないですね(笑い)。それが、良いか悪いかは分かんないですが…。

 

伊藤

私は文部省の検定試験(書道)をとってから後に、上田桑鳩先生に出会って門人になったのですが、自分では前衛書家とは思っていません。上田先生にお会いして、この人ならこっちが若くてもまともに向き合ってくれるかなと思い、門下に入れてもらったのです。もともと習字教師として出発しておりますんで、文字を離れることができないんですよ。書は芸術だと思うようになったのは、東福寺を創建した聖一国師の遺偈を見た時に、もう魅了されて「これが書の線だ」という一つの私の目標ができたんですね。文字でないもの見ても同系の不思議さから、そこに宇宙哲学、一つの世界が感じられるような気はしております。だから字でないものを書いて出されても、これいいな、と思える眼はまだ持っているつもりです。

 

田宮

椎木さん、先程のお話を聞くと環境的に桑鳩精神は遺伝子のようにあった感じですけれど、そういう風にお育ちになって布穀会に入って実際に上田桑鳩世代の大先輩がいるわけね、そこで同人として平等にやっていくわけですけど、どんな感じですか?

 

椎木

私がついていた竹澤江東師匠は6年前に亡くなられ、私も広島にいて東京の会員がどれだけ大先生なのか分からないものですから同等の付き合いということで、そうさせてもらっています。そんなに違和感はないんですけど、やはり精神を継いでいく必要があると思うんで、常に新しい血を導入して今のうちに次なるステップにつなげていきたいと思います。

 

3へ続く